阿多田交流館(平生回天基地資料展示)

     山口県熊毛郡平生町 大字佐賀3900-14
    電話番号  0820-56-1100

    開館時間 午前9時〜午後4時
    休   館 毎週月曜及び国民の休日
           年末年始
       (月曜が祝日の場合はその翌日 )
    
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平生回天基地があった平生町阿多田地区は、山口
県の東部に位置します。
かつて塩田だったのどかな瀬戸の半島、阿多田(ア
タタ)。
ここには、太平洋戦争中、旧海軍の潜水学校 さらに
水中特別攻撃隊の 訓練・出撃基地がありました。
当時の貴重な資料約300点と、回天のレプリカ(映画
「出口のない海」で使用)を設置しております。


塩田だった阿多田半島に旧海軍潜水学校、
そして人間魚雷「回天」基地
 

塩田が広がる半島

旧海軍潜水学校・回天基地
温暖で雨の少ない穏やかな瀬戸内式気候 に恵まれた 阿多田半島は、江戸時代から塩田によって栄え風光明媚な、平和な地域でした。
  
しかし、太平洋戦争が始まり、のどかなこの地にも戦争の暗雲が立ち込めました。

旧海軍の潜水学校建設のため、阿多田の住民は先祖から守ってきたこの土地から立ち退きを余儀なくされました。そして敗戦色濃くなった昭和19年早春、旧海軍の潜水学校を開校しました。
その翌年の早春特殊潜航艇「蛟龍(コウリュウ)」 ・「海龍」、人間魚雷「回天」の基地が造られました。
  

  
陳列してある阿多田半島の模型やその他歴史資料によりその変化がわかります。

 人間魚雷「回天」

 


     

 

  「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」
  決して生きて還ることのない必死の特攻兵器
  

   戦況が悪化した昭和19年8月1日、人間魚雷「回天」
   兵器として採用されました。
  
  
   阿多田交流館の敷地内には映画「出口のない海」の撮影
   に使われた回天のレプリカが展示
されています 。
  
   回天を乗せた台座や海中で潜水艦から直接回天内部に入
   る搭乗口(交通筒)を忠実に再現しています。
   このレプリカは市川海老蔵扮する主人公並木浩二が回天の
   搭乗訓練をする場面で実際に海に浮かべ撮影したものです。
  
  
      


 訓練、そして出撃


訓練時のノート

  目標艦の角度を測る
      射角表
搭乗員は、秒時計と射角表で相手の位置を計算し、突撃しました。
この秒時計は自分の命の長さを刻むものでもありました。

秒時計


昭和19年8月、回天が兵器として採用された直後から、
搭乗員の募集が始まりました。
昭和20年3月1日回天基地平生突撃隊が開隊

同年4月17日より平生湾で訓練が開始。

回天は九三式魚雷2基を合体して考案されたもの。
操縦は難しく、 大変危険を伴うものでした。
訓練 の内容をメモしたノート(写真)からは、さまざまな
科学知識が叩き込まれた様子が伺い知れます。

回天の操縦には、秒時計が不可欠でした。
また、目標への突撃角度を図るために搭乗員は射角表
を使用していました。元搭乗員より寄贈を受けて秒時計
と射角表を展示しています。

また、平生基地では訓練中の事故で3名が亡くなって
おり、その遺影が飾られています。




回天は前進しかできないばかりか、脱出装置もありま
せんでした。
突撃したものの、海底に突き刺さって浮上できず亡く
なる隊員もいたそうです。
酸欠で苦しんで死ぬこともあり、出撃の際には自決の
ための短刀「護国」と拳銃が渡されたと言われます。







出撃前の写真。隊員たちが手に持っているのは「護国」
です。


 散っていった若い命


  平生基地からは昭和20年7月、伊号第58潜水艦
  にて出撃。5名の搭乗員(18歳〜23歳)が、その
  若い命を失いました。
   










   当館では、突撃前に家族や友に宛てた手紙や手記
   を展示しています。
   
   搭乗員の一人は出撃直前まで、育てていた花に水
   をやっていたと言います。
  

 








   
終戦後自決した特攻隊長橋口大尉の「自啓録」
   

  
特攻隊長の橋口大尉が海軍学校入学から、平生
   基地で自決するまでが克明に記録されています。
   彼は、大変指導力があり、回天の操縦技術も優れ
   ていたと言われています。
   部下の出撃後、自らも血書を以って出撃を嘆願し
   よ うやく8月20日に特攻隊長として出撃命令を受
   けますが、終戦となりました。
   8月18日未明、出撃して死んでいった部下達の後
   を追うように自ら命を絶ちました。


   
「自啓録」には「後れても後れても亦卿達に誓ひし
    ことばわれ忘れめや」
高杉晋作の句を引用した
   遺詠とともに多くの友の名を書き残しています。
   

   
 

  「鎮魂の詩」斎藤信夫氏画(開館記念寄贈)

  
  この「鎮魂の詩」は、元搭乗員だった斎藤信夫さんが、
  阿多田交流館の開館時に寄贈してくれたものです。
  当時斎藤さんは、自らも回天特攻隊天飆(てんひょ
   う)隊として平生基地で日々訓練し、若き時代を過
   ごされました。
  「鎮魂の詩」は今も変わらぬ静かで美しい海に、
  当時への想いを馳せた詩です。
  阿多田交流館 玄関正面に展示してあります。

   

 

 その他の展示

   館内には戦時中の生活を物語る展示品が多数
   収められています。
 
   写真右下の布は、「千人針」といって1mほどの
   白布に赤い 糸で、千人の女性が一人一針ずつ
   縫って結び目をつくったもので、出征兵士に贈っ
   たものです。
   兵士はこれを護符として腹に巻いた り、帽子に
   縫いつけたりしたそうです。

  また慰問袋といって兵士を激励するため缶詰など
  の食料や日用品、手紙などがつめて贈られました。
  陳列ケースには、その時もらったお菓子の空き箱
  を大事にとっていたものが飾られています。

  また、平生では特殊潜航艇「蛟龍(コウリュウ)」・
  「海龍」の艇長や搭乗員の講習も行われ、
その
   貴重な資料 も残されています。
 
 
   この平生の地で、
延べ五千人の若い隊員が二、
   三ヶ月間の基礎訓練や教育を受け 突撃隊基地に
   配属 されました。



 

 


   阿多田半島の模型は、見学に来る子供たちにも
   わかりやすいようにと造られました。
 
   静かで美しい海沿いの町、この平生の地にこんな
   悲しい歴史があったということを、多くの方々に知
   っていただきたいと思います。
   
  そして平和な今こそ、平和の大切さを、真摯に考え、
   次世代に伝えてほしいと思います。


    
 
 


      阿多田交流館への地図

 
交通機関

JR柳井駅から防長バス(上関行きor佐賀東行き)
に乗り、田名バス停で下車。徒歩3分。

                

        
            

                         
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