1.自己紹介
2.回天への志願
3.回天を初めて見たとき
4.平生基地への赴任

5.回天の搭乗訓練
6.平生基地の外での思い出
7.仲間の出撃
8.出撃命令を受けたとき

9.橋口大尉について
10.終戦
11.戦争、回天とは、何だったのか?
12.現代の若い世代へのメッセージ
13.平生町へのメッセージ


 




〜そうして戦争が終わり、61年が過ぎました。みなさんにとって戦争、
  回天とは一体何だったと今思われますか?〜


(山本)

 

日本がほとんど負けかかった時に、挽回しようとして考えたのが特攻です。

飛行機は自分の意志で帰ろう思えば帰られるかもしれない。でも、魚雷というのはそれに入ってしまうと、これは、帰ることが絶対にできないんです。
もう100%死の兵器です。

飛行機は500kg位の爆弾ですが、魚雷の場合は1.5tです。だから、当時はどんなに大きな軍艦でもこれ一発で轟沈できた。
この魚雷に人を乗せて眼を付ければ、百発百中できる。これが回天の発想だった。

ところが、人が乗って眼を付けたと思ったけれど、水中では何も見えないし、潜望鏡は水しぶきで曇って見えないんです。
結局、潜水艦を離れて、5分後くらいに一度、浮き上がって、敵を見てぶつかるという感じでした。
そんな感じだから、百発百中ということにはならない。

この兵器は机の上で考えるほど立派な兵器ではなかったという事です。
だから訓練中でもたくさんの人が亡くなるということにもなりました。

〜そういう不完全だったと思う、その兵器のために、青春時代を過ごされたわけですね。〜

(山本)

そうですね。
中川さんのように純粋な気持ちでした。
本当に、我々が死ななければ、日本は大変な事になる、というような気持ちでした。
予備学生の中には、一応志願はしてみたけど、やっぱり考えてみたら・・・。
それは絶対に死ぬ兵器ですから、そこで考えますね。
普段は訓練に一生懸命でなかなか考える余裕がない。
口に出す者は誰もいませんでした。

でも、心の底では、やっぱりここで死んでしまうのか、もう母親の顔を見ることができないんだと、誰しも考えていたと思う。そこで悩みました。

(中川)
私にとっては、回天で出撃できるというのは、一つの大きな目的でした。
それだけしか考えていませんでしたから。

戦後、会社勤めをして、会社を発展させるという目的を持ったこともあります。でも、回天ほど命をかけてする目的というものは無かった。
良いか悪いか分かりませんが、青春時代の思い出というか、あれだけ一心不乱に命を捨ててかかれるような目的というものは他にはありませんでした。

だからこの歳になって思えば、人生にとって大きな出来事だったんだなという想いがあります。
あれほど一生懸命になれた、ということは戦後、ありません。

(林)

なぜか私の場合は、最悪の事態まで行くけども、必ず救いがある。

回天もそうです。
中川さんの代わりにお前が死ねと言われて、11日に出撃するはずだったけど、潜水艦が機銃にやられて引き返したでしょう。
もし、中川さんが復活しても、その次は、山本さんの部隊のはずでしたし・・・。
それから、戦後、専門学校に復学しましたが、結核で吐血しまして、5年ぐらい療養生活をしました。
1年間に3回大手術をしてます。それでも、なんとか生き延びた。

それから和泉市役所に入りました。
その頃、大学卒業者とくらべると待遇が悪かった。
そこで、労働組合を作り、委員長として、5年間で、有名な賃上げを勝ち取りました。
新聞にも私の談話が載りましたよ。

〜回天の訓練をしたけれど、結果として、みなさんは生き延びることができた。この経験はそれからの人生につながったわけですね。〜

(林)
植えつけられてた根性はその都度、出てきたと思います。結核なんかで死ねるか!という想いがありましたね。

(中川)
人生につながったかというと分かりませんが、私は、出撃が決まっていた。

一旦、出撃しますと、土を踏むのは平生が最後なんですよね。だから、平生は第二の故郷だと思っています。
平生という言葉には、何か心とらわれるものがあります。
先の柳井と合併されるかもしれない、という時には、平生の名前がなくなるかもしれないと、困ったものだと思ったものです。
                         
10.終戦 
12.現代の若い世代へのメッセージ
 


 

 
 
                         
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