1.自己紹介
2.回天への志願
3.回天を初めて見たとき
4.平生基地への赴任

5.回天の搭乗訓練
6.平生基地の外での思い出
7.仲間の出撃
8.出撃命令を受けたとき

9.橋口大尉について
10.終戦
11.戦争、回天とは、何だったのか?
12.現代の若い世代へのメッセージ
13.平生町へのメッセージ

   
   


〜回天搭乗員へ志願した時の状況や想いについて聞かせてください。〜

(山本)

 

昭和16年12月8日に日本は真珠湾で相当な大勝をあげました。
特殊潜航艇も5基出て、英米軍の軍艦を沈めています。
その後、昭和17年8月、ガダルカナル島に米軍が反撃してきて、日本はそこで大きく負けました。
新聞には負けたとは書かずに、軍が移動したとしか書いてありませんでしたが。
でもアメリカ軍との技術や物量の差は大きく、比べ物になりませんでした。

例えばアメリカは、島を占領して飛行場をつくるのに、重機を持ち込んで2〜3日でつくってしまう。
一方、日本はほとんどが人の手でつくるんだから、その差はハッキリしていました。
制空権をアメリカ軍にとられてしまい、その後戦況はどんどん悪化していったようです。
昭和18年4月には、連合艦隊司令長官の山本長官が戦死しています。

また10月頃には、海軍兵学校や士官学校などを出た職業軍人だけでは士官が足らなくなってしまい、学生を1年くらいの訓練で士官にし、幹部を補充するという予備学生の制度ができたんです。

私は金沢高等工業専門学校(現金沢大学)の学生でした。
21歳で受ける徴兵制度を学生の場合は延期されていましたが、それも廃止され、私は海軍を志願しました。
陸軍にも合格していて、末はパイロットになる予定でしたが、海軍に行きました。昭和18年10月のことでした。

〜なぜ海軍を選んだのですか?〜

(山本)

若かった頃の感覚ですが、陸軍はドイツやフランスを真似ているからか、何か泥臭さを感じていたんだと想います。
海軍はイギリスをモデルにしていて、スマートな印象を個人的に感じていましたね。

昭和18年10月ですぐに基礎訓練のため中国の旅順に行かされました。
大学生は最初から準士官待遇です。だから何もわからないのに士官の服を着て、軍艦に乗っていき、そこで4ヶ月間の訓練を受けました。
それから、横須賀の学校で航海訓練を受け、その後日露戦争で使った「出雲」という軍艦で10週間の実習を受けました。

その頃、人間魚雷が考案されました。
航海訓練が終わったときに、艦長に呼ばれて
「特殊な兵器がある。この兵器ができれば日本は戦況をひっくり返すことができるかもしれない。志願しないか。」と言われました。
その兵器の内容は言われませんでした。
当時は「嫌です。」とは言えないんです。
もし言えば、どこかの戦地へ直ぐに行かされて、結局死ぬことになるんです。
だから絶対嫌とは言えませんでした。
予科練の人の場合は、行くかどうか希望を聞かれたということです。
でも、予備学生の場合は「行かないか?」という問いかけがあっただけで、行かざるを得ないという状況でした。

〜その時、本心ではどんな風に思いましたか?〜

(山本)

どんな兵器なのかという内容はわかりませんでした。
しかも日本が負けてきてるということはわかっていましたから「わかりました。」と言うしかなかったんです。

後で聞いてみると、まず長男は家系を継ぐから駄目。長男ではなくて水泳ができる人で、目の良い人が選ばれたそうです。
私は視力が2.0でしたし、三男でした。それに考慮して、選ばれたようです。

その頃、戦地に行って帰ってきた人達はみんな、このままでは負ける。何か特別なことをしないと勝てない、負け戦ということが目に見えていました。
でも私たちは、神がかりとでも言いましょうか。非常に不利だとは判っていましたが、日本は負けない、まさか負けるとは思っていませんでした。

だから最後の兵器として、いわゆる特攻です。
空からの飛行機による特攻、海からの魚雷による特攻、この二つで戦局を挽回しようとしたわけです。
回天には、世の中をひっくり返して戦局を挽回しようという意味が込められています。
当時は金物と言われて、秘密を守るための暗号で呼んでいました。

〜次に中川さん、回天に志願した当時の心境をお話しください。〜

(中川)
予科練は自発的に志願しました。 昭和18年の12月1日でした。
当時は 、戦意高揚のためでしょうか、真珠湾攻撃などの戦争映画が盛んに上映されていました。
だから、そういうものに、よくわかりませんが、影響を受けたのだと思います。

(山本)
各中等学校には予科錬に何名か出せ、というような命令があったようですよ。
だから、校長は生徒を勧誘して、何人か出さなければならなかった。
このお二人も、そのようにして声がかかって出てきたんだと思います。

私は戦後、高等学校の教員になりましたから、後になって聞いたことですが、 当時の校長先生はそうして生徒を軍隊に出すことについて、非常に苦しんだそうです。
いうなれば、このお二人は、その犠牲になったんだと思いますよ。

(中川)

 

 

おそらくそのような指示があったのでしょう。
私は大阪府立豊中中学校にいまして、500人くらいいる中で2名ほどが応募して予科錬に入りました。
なぜ私が応募したのか、覚えていません。
おそらくカッコいい戦争映画を観た、その影響だろうと、今になって思いますが、定かではありません。

聞いた話では、米子中学などはクラスを挙げて予科錬に何十人入ろうっていう、そういう風にしてたくさん予科錬に入った学校もあったようです。
特攻というイメージではなくて、「飛行機に乗れる」という感じで入ったわけです。

でも、実際には乗る飛行機がない。
そこで、昭和19年の夏、みんなが講堂に呼ばれて士官の方から、回天に乗るかどうかの意思表示を求められたのです。
100%は憶えていませんが、たしか講堂の窓を全部閉めて薄暗くして、教員を外に追い出して士官の方だけが周囲を囲んで説明が始まりました。

戦況は悪いとはいわなかったが、苦しいというようなことを言われたと思います。
そして、乗る飛行機はないが、特殊な兵器があるのでそれに希望しないか?と。
これはあくまで任意だと言われて、紙切れを渡され、それに名前と、希望する者は○印を、希望しない者は×か、何も書くなということでした。
われわれは熱望すると二重丸をして出しました。
何に乗るなどは知らされてなくて、とにかく特殊なものだと、命の保証はできないと言われたかもしれません。
人間魚雷「回天」なのだという意識は、当時なかったです。

先ず行きましたのは、長崎県の川棚魚雷艇訓練所というところに行きました。
金物「震洋」(シンヨウ)というモーターボートがありました。モーターボートの前に爆薬をつけて突っ込むという特攻兵器です。
そこで基礎訓練を1ヶ月受けて、それから回天の方に移りました。それは、私たちの希望ではなくて、強制的にコースとして決められていたようです。

〜そのような特攻の兵器に乗るということについて、家族には何か連  絡はなかったのですか〜

(全員)
それは、ありませんでした。最後までなかったです。秘密兵器ですから・・・。

〜林さんの志願の状況を聞かせてください。〜

(林)
戦後、聞くと奈良の航空隊でも中川さんとは隣の軍隊で同じ兵舎にいたようです。
中川さんと同じように講堂で一緒に聞きました。雨戸も閉めて真っ暗にして、各班長、教員、下士官も全員追い出されました。

言われた言葉は覚えてるというよりも、むしろ戦後の読んだ記録や本からの影響が大きいと思います。映画「出口のない海」に出てきたシーンとほぼ同じだと思います。
でも、予備学生の山本さんの場合は、さっき言われたように、一期先輩ですから、逃げ道のないような志願のさせ方だったようです。

(山本)
私の同期でも希望をとったところもあるようですよ。
例えば東京大学出身の和田稔さんは、長男でした。
彼は回天を希望したけれど、長男だからという理由で一度は拒否されたそうです。でも、どうしても志願したいという希望から、許されて採用された。ということもありました。
彼は、結局、回天の訓練中に行方不明になって、戦後に、亡くなった状態で発見されましたが・・・。

〜特殊な兵器に乗るかどうかを問われたとき、その紙に×を書いた人  はいたのでしょうか?〜

(全員)
いないでしょう。

(林)
戦友会をしたときに、わたしが一重丸を書いたような気がすると言ったら、全員が「うそだ」と言いました。
みんなが「二重丸を全員書いたじゃないか」と、言っていました。だから、×を付けた人はいなかったのでしょう。
私は、一重丸を付けたと思います。なにせ、ゼロ戦に乗りたいと思って予科練に入りましたからね。

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   阿多田交流館展示のレプリカ

※回天金物)
水上艦用の酸素魚雷(九三式魚雷)
を改造したものです。
「回天」は炸薬量も魚雷の3倍と多く、命中により敵艦の撃沈を確実に期待できるとされていました。
まさに名前のとおり、戦局を一転させる必殺兵器として開発されたのです。
回天は、特攻隊員である黒木博司大尉,仁科関夫中尉らが自ら構想しました。
当初は「必死」を前提とする兵器は採用できないと却下されましたが、二人は何度も上申しました。
そして戦局の厳しくなった1944年(昭和19年)8月ついに兵器として採用されたのです。
同 年9月山口県の大津島に基地が設けられ、本格的な開発が始まり、11月には光基地が開隊。平生基地の開隊は、終戦目前の昭和20年3月でした。






※震洋金物)
小型のベニヤ板製モーターボートの先端に炸薬(主に250キロ爆雷)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦しました。
日本本土決戦時には、入り江の奥の洞窟などから出撃することが計画され、日本各地の沿岸に基地が作られました。九州・川棚の訓練基地跡が有名です。
                         
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