| (中川)
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私は、出撃が決まった後に、こんな風にメモをしています。
「体当たりまであと旬日。ひと目、家の者たちに、親類に、お別れしたい。これまでが人情だろう。しかし、よく考えてみよう。果たして、会うだけで心残りが飛ぶだろうか?未練が一層強く残るのではないか。こんな女々しいことで5万トンの敵を轟沈できるか?底からの声を奮い起こせ!男らしくやれ!」
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〜それは自分を励ましていたのですか?〜
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(中川) |
このような状態が当たり前だと、思っていたのでしょうね。
今と全然時代が違いますし、そのような軍国教育を受けてきたからなのかもしれません。
とにかく早く出撃したいなというような気持ちが、ほとんど全てでした。
だから「死」という意識が、恐らく無かったと思います。
行けることなら早く行きたいという感じになってました。
だから終戦になって、一時、呆然としてました。
終戦ということも、宿舎の前で聞いたのか、あるいは訓練に出ていたのか私は覚えていません。
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(山本) |
そうやって、自分を納得させたんですね。
もう、追い詰められて、どうにもならない状況です。
逃げるわけには行きませんし・・・。
潜水艦に乗って出撃して、その潜水艦の中でも、やはり、そんな気持ちだろうと思います。
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(林) |
たった一回ですが、潜水艦に入ったとき、異様な雰囲気を感じました。
潜水艦の乗組員が私たちを見る眼が異様でした。
新米もベテランも、下士官たちは私たちを避けて通るようにして、こちらから声を掛けないと話しかけてきませんでした。
唯一、乾パンを持ってきて、「どうぞ食べてください」と言われたことがありました。
恐らく、「あいつらは死ぬのだから、話をするな」と、禁じられていたのではないかと思います。
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| 〜林さんは出撃命令が下ったとき、どんな思いでしたか?〜
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| (林) |
まだまだ先だと思っていました。
搭乗の組み合わせを見たらだいたい順番が分かりますからね。
そんな時、中川さんが負傷した代わりに、出撃せよと命じられました。
その時のことを、戦後に結核で入院していたときに記したメモがありますので、これを読みます。
(メモより)
昭和20年7月に突然呼び出されて副長室をノックしたところ少佐は廊下に出ていきなりこう言った。
「出撃予定の某兵曹(中川さんのこと)が負傷した。貴様は彼に代わって出撃の準備をせよ」。この時のショックは言葉には出来ない。空襲を警戒して暗幕で囲った薄暗い廊下を忘れることは出来ない。この後出撃予定が延び、某兵曹の傷は治った。その後、少佐からは何の言葉もない。戦後、東京で少佐に会ったが忘れたと言われた。
今も、その廊下での光景が、未だに記憶にありますよ。
その点、中川さんは純粋でしたね。
「早く行きたい。出撃したい」という気持ちが100%という感じでした。
でも、私は80%もない、正直に言って60%ぐらいです。
その頃、親友たちとは、「エスケープ」そういう言葉を使って、逃げ道がどこかにないかって、話していましたから。
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〜人によって、意識に違いがあったわけですね。〜
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(山本) |
そうですね。
予備学生の大半は大学等で、色々なことを考えて過ごしてきています。
例えば、訓練で行方不明になって、戦後に亡くなった状態で浮かび上がった和田稔さんなども、人間魚雷が兵器として許可されていなかった時に、こんな風に言っていました。
「人間魚雷のような逃げ道のない兵器でやらなくちゃいけないような、悪い戦況になっているんだ」と・・・。
そういう事で悩んだ人もいますね。
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