1.自己紹介
2.回天への志願
3.回天を初めて見たとき
4.平生基地への赴任

5.回天の搭乗訓練
6.平生基地の外での思い出
7.仲間の出撃
8.出撃命令を受けたとき

9.橋口大尉について
10.終戦
11.戦争、回天とは、何だったのか?
12.現代の若い世代へのメッセージ
13.平生町へのメッセージ

  
  


〜橋口大尉については、どのような思い出がありますか?〜


(中川)

 

終戦直後、橋口大尉が自決される前日、8月17日の夜、伊36号潜水艦で出撃するはずだった私を含めて5人を阿多田の山に集めて、お話をされました。
何を話されたのか、解決できない問題があるとか、何らかの諭しだったとしか、覚えていません。

実は、それが、自決される4〜5時間前でした。そして朝の3時半に自決されました。
私は朝の4時に衛兵にたたき起こされて、一緒に出撃するはずだった人も起こして、一緒にその現場に行きました。
回天の中で、亡くなっていました。拳銃を二発、撃たれていました。

下士官兵舎に祭壇が作られ、そこには、海軍少佐として祭られていました。でも、翌朝には、海軍大尉と書かれていました。戦時ではないので、階級はかわらないはずですが・・・。

(山本)

この方は非常に熱心な方で、部下思いでもあるし、技術も優秀だし、終戦までの間、何回も出撃させてくれと司令や特攻長に頼んでいます。

でも、「あなたは搭乗員の訓練をして欲しい、あなたしかいない」と言われ、その後に必ず、出撃させるという話だった。
それならと、了解して、訓練することに専念されました。
結局は、出撃できずに終戦になりました。

そして 、部下に申し訳ないという思いで、自決されました。それくらい非常に熱心な方でした。

(中川)
いま話に出た「出撃させてくれ」という血書の嘆願書は大津島に保管してあります。

(山本)
あの方を悪く言う人はいませんね。
私は大学生で予備学生。職業軍人からはいじめられましたが、橋口大尉は、そんなことは全くなかったですね。差別意識のない立派な方でした。

(中川)

推測ですが大尉が自決されたのは、私だけが取り残されたという思いと、自分だけ生き延びるのは申し訳ない、という気持ちがあってのことだと私は思います。
同期の方の多くが回天で出撃して亡くなっているんですよ。

全国回天会会長の小灘さんも橋口大尉と同期です。
あの方も終戦時は出撃されていましたから、大尉は小灘さんも出撃して亡くなっていると思っていたのではないでしょうか。その小灘さんはつい2、3日前に亡くなりましたが・・・。

(林)
橋口大尉の自啓録に、
           またきみたち
「後れても後れても亦 卿達に誓ひしことばわれ忘れめや」

という句がありますが、私は今でも忘れません。(涙)

(中川)
その句にも当てはまると思いますが、
「自分はこれからも生き延びるというわけには行かない。しかし、お前達はしっかりやれよ」。
そんな風に自決される前の晩に言われたのではないかと、思います。
ただ、私は覚えていなくて、後になって、そんなことを言われたのではないかと、思いました。
                         
8.出撃命令を受けたとき
10.終戦
 

  
       橋口大尉

回天の操縦技術に優れ、人望も厚く、
搭乗員たちから尊敬されていました。
何度も出撃を希望しましたが、優れた
指導者であったことから、搭乗員の育
成のために残されました。
彼は血書による嘆願書もしたためてい
ます。
ついに昭和20年8月20日、特攻隊長
として出撃することに決まりましたが、
8月15日終戦を迎えます。
その3日後、出撃して死んでいった部下達の後を追うように自ら命を絶ちました。



 

 

 

 

     橋口大尉の自啓録

特攻隊長の橋口大尉が海軍学校入学から、平生基地で自決するまでが克明に記録されています。「自啓録」には「後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや」 高杉晋作の句を引用した遺詠とともに多くの友の名を書き残しています。(阿多田交流館展示)
 
 
                         
Copy right(c)2006 Hirao. All Rights Reserved.
Supporting By 株式会社くるとん